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Posted date:2015.06.03

日本映画大学准教授・韓東賢さんが語る、著書『チマ・チョゴリ制服の民族誌』電子化に込められた想い

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『チマ・チョゴリ制服の民族誌』は、2006年に双風舎から発売された書籍でした。発刊から10年近く経過した現在、教育機関をはじめ問い合わせがくるものの、紙の書籍は絶版状態となっており購入が難しくなっています。そこで、電子書籍として復刊。著者の韓東賢さんに、書籍に込められた想いをうかがいました。

韓東賢(ハン・トンヒョン)


●プロフィール
68年東京生まれの在日朝鮮人二世。初級学校から朝鮮学校に通う。11年間の記者生活を経て、東京大学大学院などに在籍。現在は日本映画大学教員。専攻は社会学。在日外国人問題および、朝鮮学校とその周辺コミュニティを主な対象に、ナショナリズム、エスニシティなどについて研究。

5年ほどまえのことである。ある大学で講師を務める方から連絡をいただいた。拙著をゼミで使おうと出版元に問い合わせたところ品切れだったので、一部をコピーして配布、使用したとの報告だった。

 

書籍版『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)――その誕生と朝鮮学校の女性たち』は、2004年に提出した修士論文に加筆、修正をくわえ、2006年に双風舎から初の単著として出版したものだ。初版1500部。学術的な書物としては一般的な部数だろう。各紙・誌の書評で取りあげていただいたおかげもあって、ほぼ2年間で初版分を売り切り、現在は筆者の手もとに数冊が残るのみとなっている。

 

初版分を売り切ってからは再版の予定はなく、絶版状態だった。このような場合、授業等で使用しようとしても入手は困難だ。著者としては、今思えば拙い修士論文をもとにしたものであっても、当然のことながらより多くの読者の目に触れて欲しいと願っている。そこに教育というニーズがあるのならなおさらだし、読みたい、入手したいとの声を聞くことも少なくなかった。以来、文庫化もしくは電子化の道を探ってきたのだが、長い道のりだった。このたびの電子版発行は本当にうれしい。

 

今や使い古された感のある「ポストコロニアル」という言葉(私は重要だと思っている)で指し示すことのできるような状況、その時間的・空間的な「距離」によって生じるズレやブレ、その狭間で生まれた、切ないけれど美しい(というのはもちろん私の主観だ)「モノ」、肌触りのあるその象徴的な「モノ」を通じて、それを生み出し、それが可視化している、当事者たちの意識、リアリティ、それを支える文脈を解き明かしたかった。またそれを伝えることは、書籍版あとがきにも書いたように、(この社会に豊かさをもたらす、という意味で)「面白い」ことだと思っていた。

だが、修論を書いていた当初のこのような楽観性を、今、私が、同じようなかたちで持つのは難しい。なぜか。そのような意味での「面白さ」を受け入れる余裕が今この社会にあるのかどうか、私にはわからない。この10年、私の感覚として一番変わったのは、おそらくそこだ。

 

わかりやすい動きだけを見ても、2009年に在特会が京都の朝鮮学校を襲撃し、2010年から当時の民主党政権が実施した「高校無償化および就学支援金支給制度」からは、制度の枠組みに反して朝鮮高校「だけ」が外された(2013年に自民党政権が除外を制度化。現在、全国五校の朝鮮高校が国を相手取り訴訟中だ)。政府の右にならえで、「国民感情」を理由に(わずかばかりの!)補助金をカットする自治体も相次いでいる。そして、こうした動きを踏み絵にして「きれいな(もしくは上品な)犠牲者非難」を繰り返すマスメディア。官と民が共鳴しつつ、そのような空気のなかで、朝鮮学校に対する人々の視線は大きく変わった。

 

でもだからこそ、ここに生きる者として、一緒に考えていきたい、とも思っている。書籍版あとがきでも少し触れたことだが、チマ・チョゴリ制服を着た朝鮮高校生のイラストを『東京女子高制服図鑑』の著者に描いてもらった意味は、当時も今も私にとっては変わっていない。私はといえば、こうした逆風のなか、今を生きる朝鮮学校の子どもたちの調査――被差別意識についての――を始めたところだ。

 

1980年代末から断続的に起きた「チマ・チョゴリ切り裂き事件」への対策などを理由に1999年に第二制服が登場し、とくに2002年の日朝首脳会談における拉致認定後、学校以外の場でチマ・チョゴリ制服を見かけることはほとんどなくなった――。本書の出版以来、私はこのように書き続けてきた。だが皮肉なもので、ここ数年、「無償化」除外をめぐる集会や署名運動などで、チマ・チョゴリ制服を着た女子生徒が「活躍」する姿や、それが象徴として「活用」され、「注目」される様子を、以前より目にすることが増えたような印象もある。

 

これをどうとらえるべきなのか。ここで答えは出さないが、また新たな意味を持ってしまっているのだろうとは、思う。モノはモノそれ自体が意味を持つのではない。そこに意味を付与するのはその時どきの社会や人びとの意識である。見えないそれを見きわめ、解き明かすのが、私の仕事のひとつと考えている。

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