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Posted date:2015.08.03

【インタビュー】ノンフィクションライター宇都宮徹壱さんに聞く「伝える仕事」①

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ノンフィクションライターであり、写真家でもある宇都宮徹壱さん。ヨーロッパ各地のサッカー事情を取材してまとめて2009年に発表した著書『フットボールの犬』は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞し、総合スポーツニュースサイト『スポーツナビ』でも活躍中です。そんな宇都宮徹壱さんが考える「伝える仕事」の魅力とは!?

宇都宮徹壱さん


●プロフィール
1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、テレビ制作会社勤務を経て、97年に「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追い続け、積極的な取材活動を展開中。『フットボールの犬 欧麗巴 1999‐2009』(東邦出版)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。また、有料メールマガジン『徹マガ』も展開中。

「昔も今も“何かを伝えたい”という想いが根底にあるんですよ」

―宇都宮さんはノンフィクションライターであり、写真家でもあり、インターネットの世界ではサッカーライターとしても有名です。また、『サッカーキング・アカデミー/サッカージャーナリスト講座』では講師も務めていますし、和光大学ではスポーツメディア論の非常勤講師もされています。さまざまな分野でご活躍されていますが、もともと「伝える」という仕事に就きたいという思いが昔からあったのでしょうか?

「いや、これがまったくなかったですね。僕は東京芸術大学出身なのですが、大学受験する頃はイラストレーターになりたいなぁと漠然と思っていたんですよ。時代でいうと80年代半ばくらいで、当時はちょうどグラフィック・ブームと言いますが、イラストレーターがひとつの人気職業だったんですね。僕の先輩でもある日比野克彦さんかブレイクしたのも、ちょうどその頃で、“イラストレーターってカッコいいなぁ”となんとなく思っていました」

―イラストレーターとは意外ですね。

「そうですか(笑)。たいていちょっと絵がうまい男の子だったりすると、子どもの頃は漫画家になりたいなぁと思ったりするじゃないですか。ただ、僕には漫画家はなんでも描けなきゃいけないというイメージがあって……。当時の僕は物語(ストーリー)を作るのは好きだけど、“どんなジャンルでもなんでも描ける”と言い切れるほどでもなかったので漫画家は厳しいな、と(笑)。それでも絵で何かを表現したいという思いがあって、出た答えがイラストレーターだったわけです」

―それが今では絵ではなく、文章と写真で「表現」されていますよね。

「今振り返ると、これはもう一貫していることなのですが、僕の中に昔も今も“とにかく何かを伝えたい”という想いが根底にあると思うんですよ。その思いがさまざまな経緯や偶然、時代の潮流などと相まって、今の僕がいるというのが率直な感想です。運もたぶんに働いていたと思いますし」

―サッカーはどうでしょう。やっぱりお好きだったんですか?

「サッカーは小学校から中学、高校、大学までやっていましたけど、非常にヘタクソでしたよ(笑)。子どもの頃ってなんかしらの部活をするじゃないですか。僕の場合はそれがサッカーで、なんとなく小、中、高校とサッカー部を続けていた感じです。むしろ中学、高校はずっとベンチだったので部活が嫌で仕方なかった頃もあったのですが、当時の僕にはなぜか“部活をやめる”という決断を下す選択肢がなかったんですね。なんとなくズルズルとサッカーをやっていて、大学に進学してからもサッカー部に入ってしまったくらいです。ただ、その大学時代のサッカーは充実していました。当時の芸大サッカー部は普段の練習にも4〜5人しか顔を出さないような感じだったのですが、それても仲間たちと一緒に本気でサッカーに取り組むことで、達成感もあったんです。サッカーで得た、初めての達成感でした」

―20歳を過ぎてから初めて、サッカーで喜びを味わったわけですね。

「ええ。でも、だからと言ってサッカー業界でメシを食っていこうとは思ってもいませんでしたよ。今のように世界中のサッカーをテレビや雑誌、ネットで見たり楽しむことができるという環境ではなかったですし、学生の頃はワールドカップや日本リーグを熱心に見ていたというタイプでもありませんでしたから(笑)」

SONY DSC

―そんな宇都宮さんがサッカー業界の世界に飛び込むキッカケは? 

「これは話すと長くなるのですが、僕は大学院まで進学したあと、縁あってとある映像制作会社に就職するんです。主に企業のリクルーティングビデオを制作する会社だったのですが、就職からしばらくしたバブルが弾けたんです。そのせいで会社の業績も低下して社内の雰囲気も次第に悪くなっていき、意にそぐわない仕事も多くなってそこを2年ちょっとでやめることになるんです。“これからどうするか”といろいろと考えていく中で、当時の僕にはふたつの選択肢がありました」

―ふたつですか?

「ええ。ひとつは、ふたたび就職活動してほかの制作会社に勤めて引き続き映像関係の仕事をすること。もうひとつは、ちょうどその頃、母校の芸大でポーランドのクラクフに派遣する学芸員を募集していたんです。ご存じのとおり、ポーランドは第二次世界大戦で国土の多くが破壊されたのですが、クラクフだけは奇跡的に被害が少なかった。そのクラコフに日本の浮世絵に関する美術館があって、海外青年協力隊のプログラムの一環としてその学芸員を募集していたんです。僕は当時からなんとなく東欧に惹かれていて、その学芸員募集にも応募しました。ただ、最終選考の最後の4人というところまで残ったのですが、落ちてしまった。それで新たなにエンジンネットワーク(現エネット)という映像制作会社に就職することになりました。あのとき学芸員選抜に受かっていたら、今とはかなり違った人生になっていたかもしれません(笑)」

―ただ、そのエンジンネットワークでサッカーに携わることになるわけですね?

「はい。僕がエンジンに入社したのが94年なのですが、最初に担当したのが川平慈英さんがパーソナリティーを務めていたテレビ東京の『ダイヤモンドサッカー』でした。エンジンが委託制作していたのですが、アナウンサーの金子勝彦さんと今では日本サッカー協会の会長になられた大仁邦彌さんが席を並べ番組としてご記憶の方も多いと思います。オールドファンにとってはイングランドやブンデスリーガの試合など欧州サッカーの情報番組というイメージが強いでしょうが、僕かスタッフを務めていた頃はJリーグも始まっていましたから、主に日本サッカーのことを扱う情報番組だったんです。その『ダイヤモンドサッカー』でADを務め、NHKのBSで放送されていた『BSワールドサッカー』にも番組スタッフとして携わっていました。今でもNHKのBSでは一日遅れぐらいプレミアやセリエAの試合中継か行われていますが、当時はイングランド、イタリア、ドイツなどの試合映像がまとめていっぺんにドカっと送られてくるんです。僕らスタッフはそのすべての映像をチェックして、何分に誰がシュートを打って、誰がゴールを決めたとか、誰が何分にアシストしたとかなど、細かく書き起こしていくわけです。スプリクトというやつですね。それをもとに前半や後半のハイライト映像を作り、MA(音入れ)するわけです。アナウンサーは山本浩さん野地俊二さんなど、当時のエース級はかりで、解説も松木さんだったり、セルジオ越後さんだったりと錚々たる方たちと仕事させていただきました。今振り返ると、取材現場の仕切りとかインタビューの基本、サッカーの見方や専門用語の使い方などを現場での仕事を通じていろいろと学ぶことができた貴重な日々でしたね」

「サッカーは人を結びつける力がある」

―やがて「写真家宣言」をされるわけですよね。

「エンジンは97年2月に辞めているのですが、その前の96年に僕は30歳になるわけです。で、そこで改めて自分の人生について考えてみた。人間、30歳になるといろいろと考えるというじゃないですか(笑)。そのとき、自分の適性や業界の状況などを考えると“このままADをやっていくべきだろうか”と思うようになったんです。と同時に、尊敬する写真家の荒木経惟さんのことが僕の心の中にずっとあった。荒木さんは31歳のときに“写真家宣言”をされているんです。荒木さんはもともと電通のカメラマンだったのですが、第1回太陽賞を受賞されたあと、これからはカメラで食っていくと写真家宣言されているのですが、僕もそれに倣ったと言いますか……。僕は荒木さんのような天才でもないし撮る写真の作風などもまったく違いましたが、荒木さんの人生というものが僕の中でとても影響があるもので、“自分も31歳までになんとかせんといかん”という想いがあって写真家宣言するわけです」

―30歳がひとつのターニングポイントだったんですね。

「ただ、写真家になると言っても何を撮るか、何をテーマにするかというものも必要ですよね。そこで以前から興味があった東欧の旧社会主義国に僕の気持ちが向かっていくわけです。というのも、『BSワールドカップ』でスペインサッカーを扱うことが多かったのですが、あの頃、スペインでは東欧の選手がかなり大活躍していたんですよ。バルサにはハジ(ルーマニア)とストイチコフ(ブルガリア)がいましたし、レアルにはシューケル(クロアチア)やミヤトヴィッチ(モンテネグロ)がいたりとか。スペインの明るい風景と、当時の僕が抱いていた東欧のどんよりしたイメージがまったくマッチせず、彼らと彼らを生んだ国のサッカーに惹かれるものがあったんです。当時はまだ旧ユーゴ紛争が終わって間もなかったのですが、そんな状況なのにどうしでこんなにも素晴らしい逸材たちが次々と頭角するのだろうかと思うと、いてもたってもいられなくなって、旧ユーゴ諸国に行って写真を撮ろうと……。それで97年2月にバルカン半島に飛びました」

―旧ユーゴ紛争が終わったのが95年。まだ2年足らずでしたから危険だったはずですが?

「そうですね。ボスニアではまだ地雷が完全撤去されていないと言われていましたからね。今ほどインターネットも普及しておらず、『地球の歩き方』もスロベニアまでしかなかったくらいです。現地の情報がほとんどなかったし、ツテもまったくありませんでしたが、とにかく現地に行って写真を撮ろうと。根拠はなかったけど、“いい写真を撮って帰って来れたらその後の人生も開けるはずだ”と思う一方で、“地雷を踏んでしまったら、それこそサヨナラだな”ということも脳裏にありました。それくらい切羽詰まった状態での“自分探しの旅”だったわけですが、今思うとおそらく自分に何かリセットしたかったんでしょうね」

―ただ、その切羽詰まった“自分探しの旅”が結果的には初の著書『幻のサッカー王国』になるわけですよね。その後は『サッカークリック』や『スポーツナビ』でも原稿を書くようになられて、書き手として、写真家としてもの道を突き進んでいかれます。

「最初の本を発表したあとに、『サッカークリック』というネット媒体で記事を書かせていただく機会をいただいて……。『サッカークリック』の生みの親である鈴木崇正さんには今でも本当に感謝しています。あとは『サロン2002』ってご存知ですか? のちに特定非営利活動法人となるスポーツ文化研究会なんですが、鈴木さんや広瀬一郎さんなどと出会ったのも、この『サロン2002』でした。そこで初めて“サッカーって学歴とか社会的地位とか関係なしに人を結びつける力があるんだな”と感じましたね。『サロン2002』での出会いは僕にとって結構、大きかったですね」

―写真家宣言されて世界に飛び出したことによって道が開かれていったという感じですね。

「もう本当、結果論ですよ。その後もいくつか著書を発表できたり、『スポーツナビ』で原稿を書かせていただく機会を得たりしていますが、現在も含めて自分はつくづく運が良かったと感じます。もちろん、努力もしてきたつもりです。ただ、人間って努力だけではどうにもならないこともあると思うんです。運も必要になる。人の出会いもそうですし、仕事との出会いもそうですよね。運を引き寄せるのも実力のうちとも言いますが、それって計算してできることでもないですよね。そういう意味でも、つくづく自分は運が良かったと思います」

―運は向こうから近づいてくることもあるし、積み重ねてきたことが運につながることもありますよね。

「そうですね。なせばどうすれば運を引き寄せられるかというと、やはりリスクを冒して何かに飛び込むことだと思うんですよね。あるいは、決定的なパスがもらえるように無駄走りを厭わないとか。いずれにしても、あのまま映像制作会社にいる選択肢を選んでいたら、たぶん今の僕はなかったと思うんです」

(つづく)

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